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[加藤英介ヒストリー  1]

BORN_生まれ 1969年9月27日、神奈川県横浜市に生まれる(正確には病院だけ川崎市)。
生後3ヶ月まで元住吉(勿論全く記憶なし)、その後金沢文庫で12歳まで過ごす。 この頃の加藤家は5階建ての白い団地(公務員住宅)に住んでいた。 家族構成は父(何と東工大の先生、当時助手か助教授、後に教授、定年後の現在湘南工科大教授)、母(専業主婦、一応教員免許アリ、家で子供たちに英語を教えたり、予備校で英語、国語を教えたりした)、妹(慶應の非常勤講師、専門分野のことは何度説明されても何の事だかわからない。ちなみに旦那は東大出の銀行マンが銀行員に見切りをつけてアメリカ留学して経営コンサルティングだか何だか、とにかくもう神の領域) 。
このように学歴ナイズされた家族の中で、ひとりだけ完全に違う路線で育つ。 というより親の期待が大きすぎたためにいち早くプレッシャーに負けて脱落する。

幼少_小学校 幼少の頃の加藤少年は非常に体が弱かった。
アトピー性皮膚炎のうえ小児喘息で体も小さく死にそうだったそうで、親は強くなれ強くなれとハッパをかけた。 しかしハッパのかけ方がまずかったのか、小学校に入学する頃には逆に近所でも有名な悪ガキになってしまった。 友達をいじめたり問題を起こしては苦情の電話がかかってきて、その度に母にぶっ飛ばされた。 するとそれがストレスになって外でまた悪さをするという悪循環が生まれ、家の電話が鳴るたびにビクビクするような有様だった。 しかし嫌われていた割には5〜6年生の時のクラスは仲が良く、大人になっても何度も同窓会をやった。 18歳頃の飲み会のとき、俺があまりにもチンピラだった為友達の多くは恐れをなし、それから何年か音沙汰がなかったがその後また復活したからなあ。 喉元過ぎれば熱さ忘れるといったところか。 みんな、あの時はゴメン。 ただし残念なこともある。 しばらく前に当時仲の良かったH.Iが亡くなった。 最も悲しかった出来事のひとつだ。 あの世で達者にやっていてくれれば良いが・・・
俺は体が未発達で足は遅かったが平泳ぎは速く、3歳でヤマハオルガン教室、5歳でピアノを始めたことにより合唱コンクールではいつもヒーローだった。 カッコわるぅ。 小学校時代は大体こんなモン。

中学校 次、中学。 中学入学と同時に藤沢に越す。親がマイホームを建てたのだ。 今の自分の人生と比較すると随分ちゃんとしてるな、と思う。 入学当初当然クラスメートに知り合いは無く、覚えてるのは放送委員を決めるとき立候補すると他に2人が立候補した。 その時担任のHは民主主義を貫き、 「コイツがいいと思う奴、手ェ挙げろ!」 みたいな事言った。 その時2人にはそれぞれに出身小学校の仲間が手を挙げて、俺のときはゼロだったのを覚えている。 しかもその時、あのHの奴は俺の顔を見てアッハッハーと爆笑しやがった、一体・・・ まあ、いいか。 しかし、中学時代は楽しかった。 いい友達も沢山出来たし、相変わらず筋力不足でモテはしなかったがよくふざけたし、ちょっとイキがったりもした。 小学校時代サッカー部だったのでサッカー部にしようかと思ったが、冬走るのが正直ツラかった。 冬ボールが太ももにビタンと当たるのも耐えられなかった。 おまけに我が村岡中学は、当時全国2位の実績を誇る名チームで、とてもレギュラーを獲得出来る状況ではなかった。 そんな時、隣に住む2コ上のかわいいお姉さんが 「ブラバンに来なよ〜」 というので、アッサリ楽な方に逃げてしまった。 しかしその後、悪質な政治力を発揮して副部長にまでなったにも拘らずてんでまじめにやらず、(ブラバンの癌)と呼ばれ、先輩後輩を問わずバカにされた。 本当の話。 先生にはよく怒られたが元気でかわいい、いい先生だった。 ところで当時はまだ俺は勉強路線から脱落していないと思っていたため、猛勉強してとんでもない権力を身につけてやろうとか思っていた。 それでやっと入学したのが駿台甲府という甲府にある寮の学校。 これより先、高校の話。

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